リメンバランス・デー
リメンバランス・デーとは
リメンバランス・デー(Remembrance Day)とは第一次世界大戦や第二次世界大戦、そしてコリア戦争など、カナダ人が参加したすべての戦争や紛争での犠牲者を追悼する日です。毎年、11月11日に定められています。
第一次世界大戦(1914~1918年)
第二次世界大戦(1939~1945年)
コリア戦争(1950~1953年)
”Remember ”は「記憶にとどめておく、忘れないでいる」という意味です。何を記憶にとどめておくかというと、それは”戦争とその犠牲者たちのこと”です。
もともとは第一次世界大戦での「戦没者追悼記念日」でありましたが、今では第二次世界大戦やコリア戦争の犠牲者も含めています。
リメンバランスのセレモニー
すべての州が祝日というわけではではない
BC州では11月11日は休日です。ですが、カナダ全土がお休みではなく、マニトバ州、オンタリオ州、ケベック州などでは、この日を公式の祝日として扱っていません。
公式のカナダ全国の式典として、首都であるオタワの国立戦争記念館で開催されています。BC州ではいろいろな場所で記念式典が行われます。
この日の朝11時前になると、太鼓が鳴り響き、軍隊の現役要員と退役軍人の行進で始まります。海軍、陸軍、空軍の航空士官候補生などが含まれています。
セレモニーでは追悼の言葉、黙祷、歌など、いろいろなプレゼンテーションが行われます。
胸についている赤い花
ハロウィーンが終わって11月に入ると、胸に赤い花びらを付けた人をたくさん見かけます。テレビでもニュースキャスターやコメンテーターなど、いろいろな人が身に付けています。
この真っ赤な花は”ポピー”。日本語で言うとケシの花で、胸につけているのはその花びらです。ポピーは祖国のために戦ってくれた人たちへの慰めや感謝の気持ちを表わすものなのです。
ポピーは募金をするともらうことができます。募金活動は、街頭、モール、店など、いろんな場所で行われています。また、生徒たちに無料で配っている学校も多いです。
ポピーのいわれ
POPPY
第一次世界大戦の最も激しい戦場であったフランダース地方。ここでは多くの兵士が死にました。戦争が終わり、たくさんの十字架が立てられました。その十字架の辺り一面に真っ赤なポピーの花が咲き乱れたといいます。その思い出を忘れないためにポピーがシンボルになりました。
※ポピーはカナダ人のJohn McCraeが書いた 「フランドルの野で」という詩によって有名になったと言われています。
※フランダース地方とは旧フランドルというベルギー領を中心とする地方で、現在のオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域。
WVのリメンバランス・デー
戦争に参加したベテランたち
朝、10時50分ごろ、太鼓の音が聞こえてきました。今年もウエストバンクーバーの戦没者追悼記念式典が始まりました。
毎年この日は雨の日が多かったのでセレモニーを見に行かなかったのです、今朝は雨が降りそうになかったので久しぶりに出かけることにしました。
メモリアル・アーチ
場所はウエストバンクーバーの19番通りと20番通りの間にメモリアル公園です。マリンドライブ通りを挟んで、ちょうど図書館の向えです。ちなみに、この図書館の名前も”メモリアル図書館”( West Vancouver Memorial Library)です。第二次世界大戦の後、戦争で他界した人たちのことを忘れないようにと建てられました。
このメモリアル公園の入口にはメモリアル・アーチがあります。1925年に作られました。ここには第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして、コリア戦争での戦没者の慰霊を祭ってあります。
この日はたくさんの人が参加していました。
椅子に腰かけているベテランたち(元軍人のこと)。
行進に参加しているベテランたち。
胸にたくさんの勲章をつけているベテランたち。
女性のベテランたち。
陸軍、海軍、空軍の士官学校の人たち。
警察や消防署の人たち。
戦争未亡人、家族、親戚の人たち。
それと、追悼に参加する一般の人たち。 みんな胸や帽子に真っ赤なポピーを付けています。
セレモニーは関係者の挨拶で始まり、その後、黙祷し、国家の「Oh-Canada」を歌いました。
次に各代表者による献花が行われました。戦争関係者の代表だけでなく、教育委員会や学校や生徒の代表者もいました。
式が終わった後、参加者が身に着けていたポピーを献花の前に置いていました。そして、祈りを捧げたあと、その場を離れていきました。
戦争は悲惨
戦争は勝っても負けても心に傷が残ります。今までに2回広島に行ったことがありますが、原爆ドームや戦争記念博物館を見るたびに戦争の悲惨さを味わってしまいます。
小生は戦争を知らない世代ですが、祖母からも母からも戦争の話は聞いています。父親は仕事が忙しかったせいもあり、あまり戦争の話を聞かなかったです。多分あまり話したがらなかったのかなと思います。
親父やおふくろが20歳のときに終戦になりました。おやじは終戦まで軍隊の訓練に参加していました。おふくろは女学生のとき、運動場が畑になり、みんなで芋や野菜を栽培していたらしいです。竹槍で敵をやっつける訓練もしたそうです。鉄砲にかなうはずないのですが。。。空からキラキラと焼夷弾(しょういだん)が降ってきてきれいだったけど、怖かったので急いで防空壕に逃げ隠れたと言っていました。
自分がその場にいたらどうしていただろうかと想像します。何を思い、どう行動していたのだろうかと。。。
ヒナゲシ=虞美人草(雑記)
ヒナゲシの別名は”虞美人草”。中国の歴史書「十八史略」の中にこんな話があります。
中国の秦代末期、楚という国に項羽という王がいました。彼の軍隊は劉邦率いる漢の軍隊と戦っていました。項羽には虞美人という愛人がいて、彼の軍に同行していました。戦況が悪くなり、もうすぐ全滅してしまうと察した項羽は、最後の宴を開いて虞美人と別れを告げました。
宴の後、彼はわずかに残った800あまりの兵を率いて漢軍に向かっていきました。多くのダメージを与えましたが、最後に自ら命を絶ちました。そして、虞美人も首を切って自殺しました。
彼女が埋められたお墓の下から、1本の美しいヒナゲシの花が咲いたといいます。
虞美人の話は諸説あります。